なぜオーストラリアだったか


以前にもこのブログで書きましたが、私の2人の娘たちは長女が小学校に入る歳にオーストラリアに母親と3人で現地のシュタイナー学校に留学をしました。それから12年、下の娘も18歳になり、2人とも西オーストラリア州のパースの大学に通ってそれぞれの道を歩いています。

今思うと、なぜあのような決断をしたのかは、よく分かりません。しかし1998年時点で自分なりに確信があったことは、娘たちが大学を卒業する頃の日本はそんなに良くなっていないだろうということでした。当時はバブルの崩壊からまだ日本の経済は立ち直る状況でもなく、沈滞ムードが続いていました。まさかその沈滞ムードが2010年の今でも続いているとは、その当時は思ってもいなかったのですが、日本という国が世界から取り残されてしまうことは容易に想像できました。ですから、娘たちには世界で活躍できる環境を作ってあげることが親たちの役割だと思っていました。かと言って、ヨーロッパの寄宿舎のある学校に子どもたちだけを入れるなんてことは経済的にも心情的にもできなかったので、親子留学という選択肢を考えました。

そんな中、なぜオーストラリアだったかというのも、今思うと合理的な答えがある訳ではありませんでした。ただ、出張で何度か行くうちに、子どもが健全に育っていく環境というのは、こんなところだろうという直感のようなものがありました。自分が留学したアメリカには全く興味はありませんでした。大人になってからの留学ではアメリカという選択肢もあるかと思いますが、やはり娘2人が健全に成長する環境ということであれば、安全な場所を選ぶ必要がありました。また、仕事で知り合ったオーストラリア人たちが本当に暖かかったということも、背中を押してくれる大きな要因になりました。

治安の良さ、人々の暖かさ、時差の無さ(おじいちゃん、おばあちゃんに電話がしやすい)、空気のきれいさ、自然、公園の多さ、夕方には店が閉まってしまうという健全さ。すべてにおいてパースという街は子どもを育てるには条件が揃っていたように思います。あとは自分で学校に提案をして、留学生の受け入れを説得し、(今思うと、私の提案に対応してくれた学校側は本当にシュタイナー教育らしい人に優しい学校でした)学生ビザを取り、留学生活が始まったのです。まさか、10年後に私が留学の仕事をするとは思ってもいなかったのですが、娘たちが青春を謳歌している姿を見る度に、日本の若者たちにも世界を見るチャンスを持ってほしいと思うようになったのです。

衛藤 伸彦 / Nobuhiko Eto

代表取締役。南オーストラリア州アデレード在住。1985年 千葉大学を卒業後、文具メーカーのプラス(株)にて業態開発、商品開発、経営戦略室を担当。1990年 マサチューセッツ州立大学ビジネススクールに留学。1992年(株)ベネッセコーポレーション入社。2004年 語学学校のベルリッツインターナショナルに出向。東南アジアのマネージャーやアジア地区のフランチャイズ管理を担当。2008年より現職に就任。入学手続き無料、オーストラリアの現地6都市での無料サポート、情報量豊富なWEBサイトの構築など、留学を志す全ての人々にとって「留学エージェントとはこうあるべき」という姿を追求する日々。etonobuhiko.comにて個人ブログ更新中